こんにちは

展示が無事終了しました。来てくださった方、本当にほんとうにありがとうございました!中には遠いところから遊びに来てくださった方もいて、なんというか、なんというかね・・・・・・のうのうと生きて絵を描いているだけなのに、こんな気持ちを享受してしまっていいのだろうか!(いいよ)とか考えましたし、その分だけたくさんいい物を作ろう!と改めて感じることができました。参加者の皆さんも、みんな心優しくて、のんびりとした時間を過ごせて楽しかったです。

で、その中にお手紙(きゃー)をくれた方がいて、す、すげー!!!!!と全部の文章に思ったのだけれど、ブログも読んでくださった旨もちらっと出てきて、なんかこう、思わず嬉しくなっちゃったので、今こうして書いてる。久しぶりに。(ちょろいです)

こんな素敵なお手紙をいただけるなんて、なかなか生きていてないと思いますから、もっと頑張りたいです。ありがとうございます。!

今年、あと3つはイベントが確定しているので、・・・・・・グッズ制作もいろいろがんばります。

__________________________________________________

(急にここから変な話になりますよ!!!)

ブログって、恥ずかしいよね というのもブログって書くのは良いんだけど 聞いてる側、見ている側はただ文字列を見つめて、しっくりこなかったら前の画面に戻るわけですよね。でも、その人が止めたある一文からその先を、私はずっと止まらず走り続けている。その人には知らない文字が、続いていく。

それについて、不平を抱いているわけではないんだけど、ただその場面が頭にぼんやり浮かんで、はひーってなっちゃう。でも、それは私も同じように他の人のものにも取捨をしてる。だから、全然嫌なわけではないんだけど、この動きに関して、私の中に宿るイメージとして「病床」がある。

はて、それはなぜなのか?と考えると、ある一場面のイメージが現れる。真っ白な部屋に、真っ白なベッド。林檎の形をした光を背面に刻されたラップトップを手にして、私はただ打ち込んでいる。何が正解なんだ?と思う。

私は精神科病棟に何度も入院しています。本当に日本の医療制度には感謝しきれないほど、病院にお世話になっている。そのうちの中の一つの経験として、「隔離」がありました。まぁよくあるやつです。

白いベルトを巻きつけられて、外れないように鍵をかけられます。そして、外れないか確認をしてから、看護師さんは「うん、」と頷いて部屋から出ていきます。私はそれを何も言わずに見送る。余計なことを言うと、自由への道から遠ざかるので、鍵を閉めた音を聞いて、何もない壁に目をやります。

それが浮かぶ。

私にとって、自分の内の何かを表すことは孤独の部屋に閉じ込められるような気がする。それは、病床での記憶が特別結びついているとかではないんだけど、なんかそんな気がしちゃう。

ところで、今日私は軽く散歩をしてきた。夜道を歩きながら、このブログにどんな文章を書こうかとぼんやり考えたりしていた。うーんなんだろうなーと、巡らせていたら、ふとこんな考えがよぎった。みんなは、生きている中で他者が同じ部屋に存在していると感じるのだろうか?と。もちろんこの世界は全て連なった道で完成されている。まー海を渡らなきゃいけなかったり、空を飛ばなきゃいけなかったりもするんだけどね、でも基本的にはそうだと思う。

で、その時にいろんな人が、四方八方に散らばって存在している。私が夜道を歩いている時に通り過ぎる自転車のように、様々な人が私のそばで生きている。その瞬間、私は社会の中に一応存在していることを思い出す。でも、その感覚を思い出してすぐに、あくまでも形式的なことにしか過ぎない、と思う。同じ街に住む、すぐ近くに住む、学生、大学生、社会人、家族がいる、・・・・・・どれも文字として共通項を表すことはできるけれど、本当の意味で他者と肩を並べているわけではないような気がする。

じゃあ、私ではない他の人は、常に他者と同居しているという感覚を当たり前に持っていたりするのだろうか?と思った。同列に、自分のそばに人が生きていることを肌で感じたりするんだろうか。

そんなの、あんまり感じたことなかったなぁ、と思った。仲間意識がないんだろうか。どこにいても、他者はどこまでも他者で、同じ輪の中にいるとは到底思えない。なんなら、家族にでさえもそう感じる時がある。自分が生きる世界は、他者と同じではないという自覚が、潜在的に落とし込まれてしまったのだろうか。それについては知らないし、なによりも主観で進んでいくし、考えても仕方ないので、とりあえず終わる。

話を戻すと、その「病室の風景」の大元はきっとそこからもたらされているのだと思う。お見舞いにやってくる人も、いつかは家に帰るように、他者はいつまでもいるわけではない。病床で晩酌をするとか、プロジェクターを持ってきて一緒に映画を観ようとか、そんなことは滅多にないと思うし。他者が私を祝いに来ているような気がいつもしている。ものを持って、ある他者は私の部屋にやってくる。そして、その人はものを私に手渡す、そうしたらすぐに出ていく。私はその過程をベッドから降りずにじっと見る。

「祝う」という行為は、人に対して喜びを見せることだけではない、ものを渡すわけでもない、色々な意味合いが含まれていることは知っている。「祝う」ということは、ものすごく簡素で短いコミュニケーションの手段であると思う。そして、自動的である。

校長先生が卒業証書を手渡しする、誕生日に物をプレゼントする、お正月におせちを食べる。何かが付随して成立している。「祝い」を媒介する何か(もの)を動かす、用意する、ことで成立している。そこに本来にある祝う気持ちはあまり重要ではない。ものがあって、それが動かされることが重視される。

それを、私は他者とのコミュニケーションの中にずっと感じている。人と話す時、なにかを「祝う、祝われる」ことで、機械的に会話が成立していると思う。

その様を、常日頃ぼんやりと眺める。そして、ブログという手段を起動させることで、その「祝い」に一時的に加担することになる。それは、悪いことではないし、私は実際に否定しているわけではない。ただ、それを見て、何かを答えるのです。

うやって思ったことをありのままに書いてみるのも、変に面白くなるかもしれないし、ちょくちょく書いてみようかしら。と思ったのでした。でもわかんない、恥ずかしくなったらすぐやめる。

手紙をくれた方、本当にどうもありがとうございます。いつかどこかでお会いできるといいな。

コメントを残す